“BY THE PEOPLE , OF THE PEOPLE , FOR THE PEOPLE.” を研究する
 
谷口文朗(帝京科学大学名誉教授) 研究室の場所 〒409-0114 山梨県上野原市鶴島2375-1 TEL 090-1803-6707 メール

HOME公開研究講座教育研修講座講座スケジュール研究資料館TOP 受講のご案内
研究資料館 PAGE1
上野原田園都市地域のQuality of Life 向上のための2件の野外調査と2件の構改革特区の提案 
PAGE1 プロローグ   PAGE2  構造改革特区提案 地域通貨   PAGE3 構造改革特区提案 土地の区分所有
PAGE4 エピローグ 参考文献   PAGE5 資料1 特区提案背景説明   PAGE6 資料1 特区提案背景説明


■プロローグ
■Quality of Life維持向上策研究 へのオリエンテーションと地域特性の発見
■上野原の地域研究 その1:国道20号交通実態調査
■上野原の地域研究 その2:JR上野原駅乗降客実態調査

1.プロローグ

平成2年4月に筆者はその2年前に当地に創設された西東京科学大学(現帝京科学大学)理工学部経営工学科に着任した。西東京科学大学は@電子・情報科学科、Aバイオサイエンス学科、B物質工学科にC経営工学科を加えた4学科で構成されていたが、@〜Bは21世紀の先端技術分野についての教育・研究を目指した学科であり、Cは先端技術の事業化を視野に入れて経営の管理技術を教育・研究しようとする学科であった。学長をはじめ教育・研究スタッフの多くが東京工業大学や東京大学から着任され、すべての学科で卒業研究が4年次の必須科目に位置づけられるなど理系の大学のDNAが継承されていた。

筆者がこの理系の大学に着任する契機となったのは、大学のゼミで「J.R.ヒックスの『価値と資本』」や「マックスウエーバーの社会理論」を学んだ後に就職した企業で、@日本だけでなく世界のどこにチャンスがあり、どこにピットフォールがあるかを常に調査・研究・報告するコーポレートエコノミストの業務と、A研究開発活動の中から生まれてくる新製品・新サービスの事業化を本社の立場から支援する業務を担当した後、産業に軸足をおいたTHINK TANKの立ち上げに取り組んでいた時に、「産業あるいは経営と名のつく講義は産業人を起用する」という齋藤進六初代学長の意向が勤務先の企業の技術陣を通して伝えられたためであった。この産業に根ざすTHINK TANKはテイクオフして3年を経過した時期で、「まだシートベルト着用のサインが消えていない状況」であったが、「1期生が専門課程に進学するまでまだ3年の歳月が残されている。その間にシートベルト着用のサインが消えるところまでTHINK TANKを立ち上げて大学に赴任しよう」と決心した。

 

2.Quality of Life維持向上策研究へのオリエンテーションと地域特性の発見

着任後筆者は企業に勤務して得た知識と経験を基に「経営工学概論」・「コンセプトエンジニアリング」・「サービス産業論」・「マネジメントゲーム」などの授業を担当したが、やがて本学の「ほとんどすべての先生方が東京を向いておられると」いう現実が筆者の目に映ってきた。筆者は東京の都心で「スタッフ業務」一筋に歩んだ後に大学に転じ、教育・研究というライン業務に取り組むことに手ごたえを感じていたが、大学という新しい世界で、山梨県と上野原町(2005年2月から上野原市)という地域に目を向け、どうすれば地域のQOL(Quality of Life)をよりよくすることができるかを個別・具体的に研究しようというオリエンテーションが生まれてきた。

山梨県の本学に着任してまず筆者が驚いたのは「物流分野最大のイノベーションである『宅急便』が日本の全人口の95%、全国土面積の80%に普及していた1983年3月末に山梨県ではこのイノベーションが拒絶されていたこと」であった1)。統計によると山梨県の日照時間は全国1位、最高気温と最低気温の差が全国1位という気候条件2)3)から生み出される『朝もぎの最高の味覚のぶどう』を翌日に全国に届けることができずにいたのである。このことは筆者の目に「山梨県の人々は日常生活に係わるイノベーション拒絶症候群に罹っているのではないか」という仮説を生み出した。同じことがイノベーションの可能性を内包している平成17年の「郵政民営化法案の衆参両院での採決」に当たって繰り返された。自由民主党・民主党を問わず、衆議院議員・参議院議員を問わず、山梨県選出の国会議員5名の全員が郵政民営化法案に反対票を投じたのである。ここに至って筆者は「山梨県民の日常生活イノベーション拒絶症候群仮説」を確信した。筆者の見るところ山梨県の歴史4)に病原がある。

筆者が山梨県の歴史に学んだことは、「お上の言うことに従えばよそより悪くされることはない」という心情がDNAのレベルで形成されたためではないかと言うことである。筆者はその理由を次の5点に求めた。

@     山梨では、10〜11世紀の甲斐源氏から1541年にはじまった武田信玄の治世に至るまで一貫して「山梨県人による山梨県民支配」が続いたこと、

A     1573年の信玄死去のあとを継いだ武田勝頼が1582年3月に織田・徳川連合軍によって倒された後、織田信長が同年6月に本能寺の変で倒されるまでのわずか3ヵ月に満たない間だけ「山梨県民は信長配下の河尻秀隆という『よそ者』による暴圧的な支配を受けた」こと、

B     本能寺の変の後に河尻秀隆を滅ぼした武田の旧臣が徳川家康配下で統治に再度起用されたため「山梨県人による山梨県民支配」が復活したこと、

C     秀吉が北条を滅ぼした直後に甲斐は一旦秀吉の臣下に与えられ、家康は代わりに北条の領地を与えられたが、徳川幕府成立後家康は甲府盆地の一部を直轄領とし、甲斐を一族で支配したこと、

D     1724年、徳川8代将軍吉宗の時代に甲斐は幕府の直轄領となったこと

 

筆者は『宅急便』や『郵政民営化法案』に反対した山梨県民意識の根底には、この『幕府直轄領という歴史』の中で「危険を冒してまで新しいことに取り組まずともお上の言うことに従えばよそより悪くされることはない」という心情がDNAのレベルで形成されたためではないかと考えるものである。山梨県から新機軸というにふさわしいイノベーションを起こした人たちのすべてが県外で活躍したこともこの仮説を支援する事実といってよいであろう。上野原に着任して15年、1県民・1市民としての日常生活と山梨県の長期計画審議会委員や上野原市の審議会委員などの活動を通して、筆者は山梨という地域で日常生活に係わるイノベーションを惹き起こして行くことの難しさを体感している。

 

3.上野原の地域研究−その1:国道20号交通実態調査

平成18年4月現在、上野原市の人口は28267人、面積は170.65平方キロメートルで、その人口密度166人である。この地域の地勢を示すキーワードは「河岸段丘」(river terrace)で、坂が多く、道は狭く、平坦地は僅少であり、広い地面を前提とした米作農業は不可能で、上野原は傾斜した細長い地面でも成り立つ桑の栽培・養蚕と絹織物および宿場で日本が貧しかった時代を生きてきた。

          図1:航空写真による上野原の鳥瞰図

国道20号線は東京からの進入地点で海抜255m、商店街の最高地点で264m、

甲府に向けて市街地を出る地点(市役所前)で260mである。JR上野原駅は

185m、桂川の護岸は167mである。インターチェンジは海抜248m。

ここに挿入した航空写真(図1)は2002年に発行された『上野原町町政要覧』に掲載されたもので、上野原市の了承を得て筆者が説明を挿入したものである。国土地理院の2万5000分の1の地図では読み取り難い河岸段丘特有の町の地形とその高低がよく現れている。掲載された写真はカラー写真であるが、真冬の快晴の日の午前に撮影されたらしく、普段は豊かな広葉樹の緑はすべて落葉し、針葉樹に緑が残るのみで、散在する畑にも緑はなく、一面土色で埃っぽい印象を与えるのであえてモノクロの画像で説明した。標高は2万5000分の1の地図や駅舎に記されている数字を転記した。この町を通る国道20号線と大学開設時に新設された川沿いの県道はマーカーで太く示した。商店街を通る国道20号線は、原図ではタコ糸のような太さで描かれているだけである。道路が湾曲している部分は上り坂か下り坂であることは言を俟たない。

この町でJR上野原駅は中心市街地から離れた標高185メートルの位置に設けられている。その理由は、養蚕と絹織物を生業とするこの地域で、桑の葉に蒸気機関車の煤煙が付着してはならないという理由で、甲州街道の宿場であった中心商店街が位置する標高260メートルの高台と富士五湖を水源とし、167メートルの護岸に守られた桂川(水位推定140メートル)のちょうど中間の地点に駅舎が設けられたためである。

人々の生活の中心となっている商店街には片側1車線の国道20号が貫通している。この商店街には宿場の面影が今も残されているが、最近建て替えられた商店がセットバックしたところを例外として国道に沿った歩道の道幅はわずかに30センチから50センチのところが残されている。15年前に大学に着任し、上野原の住民となってすぐに気づいたことは、片側1車線の国道20号沿いの商店街でダンプカーやトレーラーやタンクローリーや大型バスが時速40キロで走行し、すれ違うと買い物客は身の危険にさらされるということであった。

地域研究の目的を「地域の生活者のQOLの改善」、とりわけ「生活者の安心・安全に焦点を当ててそのための改善策を立案しよう」としてすぐに思いついたことは、まず商店街を往来する車輌のデータを得ることであった。筆者は町役場を訪ねて「国道20号を通行する車輌のデータを知りたい」と申し出たのだが、当時の町役場の窓口から帰ってきた回答は「あれは国道であるから町にデータはない」という返答であった。「国道であろうと町道であろうと町民のQOL改善のための施策の立案に必要なデータは当然町役場にあるはずだ」と考えていた筆者はこの回答に唖然としつつ「これが縦割り行政の壁なのだ。データがないというのならば自分で調査するしかない」と決心した。ちょうど3年生の諸君が卒業研究準備に取り掛かろうとする平成11年の秋に「“by the people,of the people,for the people”の立場で街の中心商店街を通行する車輌の実態調査とその結果に基づくQOL改善策の立案を卒業研究のテーマにする学生はいないか」と呼びかけたところ、ひとりの勇敢な学生が手を上げてくれた。

筆者は縁あって1942年に作成された米国メリーランド州アナポリスにある海軍大学(Naval War College)のテキスト『Sound Military Decision』5)6)を入手し、そのエッセンスの一部を「職業と社会生活」という講義の中の「組織と人」のあり方に関する部分で講義しているが、「国道20号交通実態調査」はその中で紹介されている「科学の手法」である「コレクション・ベリフィケーション・クラシフィケーション」、すなわち、「情報の収集、情報の真偽の確認、情報の分類」の手順を適用する格好の機会となった。

調査手法の詳細は卒業論文7)に譲るとして、その調査手法の概要を紹介すると以下の通りである。

@     上野原の市街と商店街に向かって東京方面から入ってくる車輌の往来と甲府方面から入ってくる車輌の往来をウイークデーとウイークエンドの2回、24時間ビデオに収録する、

A     収録した画像から大型車(トラック・ダンプカー・トレーラー・タンクローリー・バスほか)、中型車(同)、乗用車(セダン・ワンボックス)、商用車(ライトバン・ワンボックス)、軽自動車という5種類の車輌の通行台数を10分間隔でカウントする、

B     そのデータをエクセルのフォーマットに入力し、グラフ化する。グラフ化に当たって。生のままのデータをグラフにすると凹凸が激しくなるので3個のデータの移動平均値をとり、3個の移動平均値をさらに3個集めて移動平均し、全体の流れがなだらかなカーブで描かれるように工夫し、このデータを「3−3」と表記した。

 調査の手法は録画してカウントするという意味で簡明であったが、上野原には市街地の真ん中に中央高速道路の上野原インターチェンジがあり、東京あるいは甲府方面から入ってきた車輌が中央道に入って行くケース、あるいは、中央道から市街地に出てきた車輌が国道20号から東京方面あるいは甲府方面へ出て行くケースがあるために、調査の設計に工夫が必要とされ、東京方面から町への入り口と町から甲府方面への出口の2ヵ所で車輌の通行をカウントした。24時間絶え間なく通行する車輌の映像をアナログテープを用いてビデオに収録する作業は、4時間ごとのテープ交換という厄介な作業を必要としたが、国土交通省が行なっている「目視カウント方式による調査」に比べ、「映像を録画してカウントする調査手法」は車輌が集中するラッシュアワーの時間帯でもビデオを巻き戻して通行車輌のカテゴリーと台数を正確にカウントできたので、しっかりとデータを作成できたと自負している。

 筆者は2地点の個々のデータの分析および2地点のデータの差から高速道路から出入りする車輌の動向を推測する作業を行なった8)9)が、ここでは同じ手法を用いて2年後の平成14年8月9日(金)〜10日(土)に国道20号線が貫通する商店街で行なった調査結果のグラフを紹介する10)。この調査日程は夏休みの時期であったが、上野原の近隣に大規模なレジャー施設やレジャースポットはないので、金曜日から土曜日にかけての国道20号線を通行する車輌にレジャーの影響はないと判断した。このことは、@2年前の1日の交通量が15,697台であったのに対して、この時の1日の交通量が15,800台でほとんど変わらなかったこと、および、A深夜から明け方にかけて大型トラックが頻繁に往来していることに変わりはなかったことによって確認されたと考えられる。

図2:目抜きの国道20号線の商店街を往来する車輌の動向

こうして得た平成12年のデータをもとに、筆者は本学と地域の有志で構成された「地域創造センター」によって平成13年8月22日に開催されたシンポジウムで、地域の生活者のQOLの改善を念頭において「『街づくり』今、何が必要か」と題して報告し、大学開設時に開通した桂川沿いの県道を川沿いに延長して相模湖方面に向かって約400メートルのトンネルを掘って国道20号に繋げることを提案した11)(図1右端の説明参照)。このトンネルが実現すると

@     人々が寝静まっている時間帯に10分間に40台近くの大型車輌が時速60キロのスピードで道に面した家屋に振動を及ぼしながら商店街を行き来し、人々が買い物に出かける時間帯に10分間に20台近くの大型車輌が道幅一杯すれ違う事態がなくなり、交通安全と商店街の活性化が期待できる、

A     上野原の商店街を通り抜ける際に通過する距離が4100メートルから1600メートルに60%も減少するだけでなく、信号が8ヵ所から1ヵ所に減少する、

B     東京方面と大月方面から商店街を通り抜ける際に生じる坂の上り下りがなくなり、排気ガスの減少が期待される

と考えられたのである。

この提案に対してその後筆者が得た情報は「トンネルの重要性は理解できるがものには順番がある」ということであった。上野原には猪による農作物被害が報告される山間に集落が点在しており、トンネルを掘ってその集落を繋ぎ、土砂崩れなどの災害で集落が孤立してしまうのを防ぐことが求められていた。小さな地方自治体の限られた予算で「トンネルには順番がある」という説明をそれはそれとして筆者は納得した。

 

4.上野原の地域研究−その2:JR上野原駅乗降客実態調査

筆者が次に目を向けたのは、街の中心商店街と桂川の中間に設けらたがゆえに利用するのに不便が付きまとうJR上野原駅の乗降客の実態調査であった。とくに筆者が強い関心を抱いたのは、街の中心街から駅の北口を利用する場合は、航空写真にその位置が読み取れないほど狭いバスターミナルから駅のプラットフォームまで階段を31段下ればよいのに対して、桂川に沿った道路側にある駅の南口を利用する場合は、軽自動車がようやく離合できる狭い町道(現在は市道)から86段もの階段を上り、跨線橋に辿り着いたその後に31段の階段を下り、合計117段、ビルの階数にして7階分もの階段を上下しないとプラットフォームに出られないという事情であった。

容赦なく襲いかかってくる少子化・高齢化の波の中でお年寄りのためのエレベーター・エスカレーターが必要と思われたのだが、産業界で常に現場主義を貫いてきた立場からの問題は「その必要性をデータをして語らしめるために駅利用客の数と時間帯をいかに実態調査するか」ということであった。これが「上野原駅乗降客実態調査」に着手しようとした動機であった。この調査は14年の秋、折から3年生の諸君が卒業研究準備に取り掛かろうとした時期に「JR上野原駅乗降客実態調査」を卒業研究のテーマにする学生はいないかと呼びかけたところ、3名の学生が手を上げてくれた。

乗降客の動向を映像として収録するという調査の手法は変わらなかったが、今回は@バスターミナルのある北口からプラットフォームに向かう乗客、Aプラットフォームから北口に向かう乗客、B南口から階段を上下してプラットフォームに向かう乗客、Cプラットフォームから南口に向かう乗客を正確にカウントするという厄介な作業が要求された。とくにラッシュアワーの乗降客の中に日大明誠高校に通学する多くの高校生が含まれたために、それを独立したデータとしてカウントしない限り地域の人たちの正確なデータが得られないという点が難問となった。

調査に当たるわれわれにとって実に幸いであったことはこの調査にあたって、画像収録のための世界最小のレンズによってハードディスクに動画をデジタルで収録する機器が上野原のミヤ通信工業株式会社によって製作され、市販されていたことであった。一斉にプラットフォームに向かい、一斉にプラットフォームから出てくる乗客の中から制服をよりどころとして高校生を判別し、10分間隔で記録するという作業は、収録された画像を秒間隔で操作して読み取れるデジタルVTRによってはじめて可能となったのである。

この場合も調査手法の詳細と調査の結果は卒業論文12)に譲るとして、調査手法の概要を紹介すると以下の通りである。

@     上野原駅の北口と南口から乗降する乗客を高校生と一般乗客に分けて、ウイークデーとウイークエンドの2回、5:20の始発前から24:50の終電まで録画し、カウントする。その場合、一般乗降客と高校生を制服から判別できるようにカメラのレンズを天井からほぼ真下に向けてセットした。

A     収録した画像からすべての乗降客をカウントした後、改めて制服を基準に高校生をカウントして、全体の乗客数から高校生の数を差し引いて上野原の人々のJR上野原駅利用状況を10分間隔でカウントした、

B     そのデータをエクセルのフォーマットに入力し、グラフ化した。グラフ化に当たって乗客数から高校生の数を差し引いた一般乗降客のデータを作成したが、このデータのままでは朝のラッシュアワーに上野原から出て行く乗客と夕刻上野原から帰って行く乗客の動きがグラフ化され、上野原の人々の出入りが示されることにはならないので、始発から15:00までに上野原駅から乗車した乗客のデータと15:00から終電車までの間に上野原駅で下車した乗客のデータを接合し(15:00反転と呼称)、上野原の人々のJR上野原駅利用状況を取りまとめた。

 

図3:平成15年9月9日の上野原駅乗降客の動向


 

図3は上から、@平成15年9月9日(火)に上野原駅を乗降した全乗客数のグラフ、A上野原駅を乗降した全高校生のグラフ、B全乗客数から全高校生を差し引いた後の一般乗降客のグラフ(15:00反転)である。その結果明らかになったことは次の5点である。

@ ウイークデーの利用者総数(グラフ上)は8200名、ホームへ向かった乗客は4080名で全体の50%、プラットフォームから出てきた乗客は4120名で全体の50%で、上野原駅から乗車する利用者と上野原駅で降車する利用者の比率はウイークエンドもウイークデーもほぼ1:1で変わらなかった。しかし、ウイークデーにプラットフォームへ向かった乗客はウイークエンドより79%多く、プラットフォームから出てきた乗客は90%多かった。

A     ウイークデーの北口と南口の利用状況は、北口の利用客は6268名で全体の76%、南口の利用客は1932名で全体の24%であった。JR上野原駅利用者の4人に1人が南口の86段階段からの利用者であることはウイークデーもウイークエンドも変わらなかったが、北口の利用者は89%、南口の利用者は71%それぞれウイークエンドより多かった。

B     当然のことながらウイークエンドとの差が最も顕著にあらわれたのは10分間の利用者数で、ウイークデーの利用者が最も多かったのは朝8:10の460名(北口417:南口43)で、ウイークエンドの3.7倍であった。ウイークデーに100名を越える乗降客が10分間に集中した時間帯は、朝のラッシュ時の6:30〜8:30と日大明誠高校の生徒が下校する16:00〜16:40および一般乗客が家路に向かう17:30〜19:30の間であった。

C     夕刻のピークの規模は朝のピークの4分の1に過ぎなかった。

D     上野原の一般乗客の朝の通勤時のピークは7:40の203名で、10分間の利用者が100名を越える朝のラッシュアワーは6:30〜7:40の1時間10分であること、これに対して夕方は10分間の利用者が100名を越えるのは19:10だけで、17:00〜22:00にかけて人々の駅の利用が分散していることがはっきりと示された。

 

この調査を行うに当たって、駅までの交通手段や改善すべき事柄についての意見などを得る目的でアンケートを朝に上野原駅を利用する乗降客に配布し、夕刻に回収した。アンケートで、駅までの交通手段について質問したが北口は路線バスの利用が圧倒的に多く、南口は個人経営の駐車場に自家用車を停めて南口を使用しているケースが圧倒的に多かった。南口利用者からエレベーター・エスカレーター設置に対する要望が強く出されたことは言うまでもないことであった。

この調査を行なった後「バリアフリー法」が施行され、この法律に基づいてJR東日本のイニシャティブで平成15年にエレベーターとエスカレーターが完成した。エレベーターは跨線橋から改札のあるプラットフォームの位置まで上下する形で設置されたが、エスカレーターはプラットフォームのある改札のレベルから跨線橋までの31段の階段の一部分に上りエスカレーターが設置されるにとどまり、86段の階段を上った後31段の階段を下るという現状の改善に寄与することにはならなかった。

筆者はこれに対して「エスカレーターはJRの敷地を利用して南口から跨線橋までの86段の階段に設置されるのがQOL改善のために必須ではないか」と関係先に照会したが、「@工事はバリアフリー法に基づいてJRの資金で行われていること、Aプラットフォームから跨線橋に上がる階段と北口までの跨線橋はJRの構築物であるが、南口の階段とその階段に通じる跨線橋は町道であり、南口のエスカレーター工事は町政マターである。JRの資金で工事を行う筋合いはない」という回答を得た。言われるまでもなくその通りであった。